カントクの寝言  「サッカーを感じる」ということ (2002.12.17)
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 昨晩ニュースステーションに沢木耕太郎が出演し、久米宏とW杯に関して語っていた。
「日本と韓国を数回往復した。」
「○試合観戦した。」
「ベスト16の宮城は寒かった。」
 まあ、ノンフィクションライターというスタンスで、彼なりの感性で、W杯を伝えたかったのかも知れないが、その内容はあまりにも浅すぎた。「一瞬の夏」を始めとした、彼の作品は決して嫌いではない。いや、山際淳司の「スローカーブをもう一球」も、そしてカネコ御大の「28年目のハーフタイム」や「魂の叫び」も嫌いではない、むしろこの類のノンフェクションは好きなほうかもしれない。しかし、彼らはあくまで事実を小説のように比喩して書くことに優れているのであり、サッカーの専門家ではない。よってW杯を語るべきではないのである。公共の電波で語ってよいのは、湯浅健二であり、後藤健生なのである、そうでなければ見ている僕の心には響かない。

 しかし、ノンフェクションライターが語ってよい場面がひとつだけある。それはゲーム以外のことだ。すなわち、スタジアムへの往復における高揚感、様々なサポーターとの出会い、多種の苦労等を通じて感じたことを彼らの文章力をもって書けば、もしくは語れば、それは全サポーターを代表した気持ちの集約となり、充分に共感を呼び、かつそれを見た各自が「自分のW杯」を振り返ることができるはずだ。言い換えれば、ゲームのことはプロに任せて、それ以外の全ての現象、事象に関して、彼らは書く、語る資格を有しているのである。本来は・・・。

 では、その資格を有するライターの語りが何故「浅はか」なのか。彼らはいくらいろんなものを見てきたとしても、もしくは見たものに対し他人より優れた感性を所持していようとも、あるひとつの決定的なことが欠けている。「サッカーを感じていない」のだ。あなたのサッカーライフ、W杯ライフをふりかえって欲しい。僕自身の例で言えば、8試合観戦のため5日の有給をとり、50万円近くの金を使った。いやそれ以前に8試合の観戦を確保するためのチケット争奪戦は、心身ともに浪費した。さらに当日のスタジアム往復では、バスが来ないとか運営手法に対する不満とかが多数あった。すなわち、多くのプロセスを経てのスタジアム観戦であり、いわばスタジアム観戦はW杯ライフの一部に過ぎないのである。同時に、多くのプロセス(苦労)を経ての、その「一部」こそがW杯ライフのメインイベントであるがゆえ、そこでの喜び、充実度は計り知れないものとなるのである。そして後で自分を振り返る時、前述した経験の全てを踏まえ、いろいろな感動がよみがえるのである。これが「サッカーを感じる」ということだと僕は思う。

 さて、ライターの決定的に欠けていることとは?既におわかりであろうが、チケット争奪の苦労もなく、プレス専属のバスに乗って渋滞を経験せずにスタジアムに到着する輩に、僕らは何の共感が持てるのか?誤解して欲しくないのは、ゲームについて記載すべき資格を有するライター、もしくはマスコミがプレス証等を所持することに文句を言っているのではない。そうでなく、我々と同じような立場で見たノンフェクションを書く者、もしくは「私はサッカーの専門ではないが・・・」と冒頭に逃げをうつ者がサッカーを感じないで、何を伝えられるのだろうか、ということである。

 僕は心底サッカーを楽しみたい。サッカーで感動したい。もっと言えば、サッカーを通じて人生の経験値を高めたいと思っている。だからこそ、チケットをもらうとか、スタジアムまで限られた人しか乗車できない専用バスで行くとかの「もったいないこと」は決してしなくないのだ。

 最後に心底サッカーを感じている名文を2つ紹介しておきます。 

http://www.stereosize.com/aif/index.html (ここのColumn)

http://www.malicia.org/toyotacuphowto2002.html

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