カントクの寝言  road to germany 序章「迷走」 (2004.2.19)
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 ◆負けたほうがよかった

 ロスタイム、久保の決勝ゴールがゆっくりとオマーンゴールに入った瞬間、スタジアムは興奮のるつぼとなった。苦しかった戦いのロスタイムに遂にゴール!日本の勝利。1次予選のライバルからもぎとった貴重な勝点3。経過はどうあれ、日本は最高の結果でドイツへのスタートをきった。
 
 本当にそうだろうか?・・・

 確かにゲームでの勝利、そして勝点3は現段階の結果としては最高のものである。しかし、後5試合を残す1次予選、そしてそれを1位抜けしたら来年実施される最終予選6試合を戦わなくてはならないし、結果として本当に必要なのは1次予選で最大の、最終予選で2番目以内の勝点をとることである。そして僕はこの日の「3」が上記の最終目標達成を阻害する気がしてならないのである。

 何故、勝ったのにそんなことを思ったのか?ここでは冷静にもう一度、昨日の自分の気持ちを時系列で振り返ってみる。


◆気持ちの変化

 17:30 出陣
 もう午後いちくらいから、僕はワクワクドキドキしていた。たしかに不甲斐ないゲームが続いた代表ではあるが、本番ではきっちり調整してくるに決まってると信じていた。また韓国に勝っただの、マチャラだのマスコミは相変わらずのかしましさだが、所詮日本の相手ではなく、まちがいなく快勝してくれると信じた。こんなに高揚した気分になったのは、本当に久しぶりだ。こうして僕は会社を出て埼玉へ向った。

 19:15 君が代
 タオルマフラーを掲げ、君が代を目をつぶって気持ちを込めて歌う。普段のフレンドリィーマッチではこんなことはしないが、今日は本番だ。目をつぶっていると、カズと城がひざまずいたあのウズベク戦のキックオフの光景が浮かんだ。本番への強い強い高まりが緊張感を生んだ。いよいよ始まるのだ。

 19:20 ドイツへの道スタート
 立ち上がり日本は落ち着きながら、かつアグレッシブなプレーをしていた。特に右サイドからの突破が有効であり、またオマーンは完全に最初から引分け狙いがみえみえで腰が引けていた。これなら勝てる、と思った。

 前半15分頃、僕はふたつの事柄に気づく。まずオマーンの選手が最初から倒れたり、なかなかリスタートをしなかったり、との時間稼ぎを行っている。別にロスタイム表示も出る現在、決して気にすることじゃない。しかし、これが長く続くといらいらは当然増すわけで、それを解消しオマーンにゲームをさせるためにも、やはり早めに1点が欲しいと思った。 

 ふたつめ、こちらのほうが重要なのだが、どうもオマーンは自陣左サイドを「わざ」と突破させているように感じてきた。まずゴールから遠いサイドに日本にボールを持っていかせ、できればそこの局地戦でカットする。万が一センタリングを上げられた場合でも、2トップにはきっちりとマーキングし、かつ1人必ず余らせる。こうして一見日本が攻めているように見えるが、実はオマーンの術中にはまっているのではないか?という不安が増徴してきた。

 しかし攻めている(=ボールポジッションは優位)なのは事実。2トップが完全にマークされているなら、2列目からの飛び込みをすればいい。またサイドからの攻めが結果として時間がかかり、相手DFに2トップをマークする時間的余裕を与えてしまうなら、ボランチあたりからの中央突破をヴァリエーションとして加えればいい。しかし、この時間帯の日本は、ナカタ、俊輔と稲本、遠藤の間が大きく空き、飛び出しは望めず、ロングシュートもない。また右SDFはセンターライン程度までしか上がらず、何のフォローもできていない。何かとてもいやな予感がした。

 そんないやな予感がした矢先、高原が倒されPKをとる。正直、僕はほっとした。ここで、この時間帯で1−0になれば、オマーンもそれなりに戦略を変えてくる。カウンター狙いは変わらなくとも、少なくともチーム全体の守備意識が少しは減る。となると、それなりな「フットボールゲーム」が開始され、日本のチャンスは確実に増加する。そうすればリズムが躍動する。
 が、なんと俊輔がPKを外す。そしていやな予感が継続したまま前半が終了してしまった。

 後半開始。柳沢に代り久保投入。これは正解だ。サイドからの攻撃に対しオマーンが適切な守備をしてくる中で、日本FWに必要なのは体をはったポストプレー。ポスト役として高原と久保の2枚があれば、中央からの攻撃もやりやすくなる。と思った。が、何も変わらなかった。

 別に相手の攻撃は怖くない。失点の心配はそんなにない。しかし日本の攻撃はうまくいかず、いらいらが僕の体に充満してきた。そして、あれは後半25分を過ぎたあたりだろうか、遂に僕のいらいらが沸点に達した。「パスをあずけたら前に走れよ」もちろん声は聞こえない、しかし身振りでナカタが山田に指示した内容はすぐにわかった。これは練習試合でも親善マッチでもない、2006年W杯出場がかかった本番である。その本番に、選手間でこんな小学生でもわかる指示をしなくてはいけないのか。こんなのは「チーム」じゃない。さらにその指示をその後山田が守ればまだマシだが、彼は発熱のせいなのか、それともアタマが悪いのか、常に中途半端なポジショニングで攻撃にも守備にも参加していず、ボールのないピッチの右側でオロオロしているだけであった。

 ゲームセットまで10分をきる。その時日本は鈴木の投入を準備していた。どうしても1点が欲しいこの場面、彼のスピードと強さは確かに魅力だ。では誰と代える?僕はまちがいなく山田だと思った。鈴木を右サイドにはらせて突破させるのだ。この交代に最後の望みをかけた。が、ジーコの選んだ交代選手は高原。これではシステム上での何の打開もできない。僕は呆れた。あきらめた。そして悲しくなった。

 「もーいいよ。負けろ、ボケ」
 僕は大声で叫んだ。そしてW杯へのスタートの大事な大事なゲームで、そんな声を出す、そんな気持ちになる自分が信じられなかった。が、決してこの言葉は感情にまかせたものではない。僕は後半30分頃から、もしこのチームで勝ってしまい、そしてこのチームが「勝ったという最良の結果」が出たことで、それまでの問題点が全て隠されてしまったら、W杯予選を突破できないのではないか、という危惧を感じてきた。逆にこのゲームに負け(もしくは引分け)て、このチームが解体し、もう一度きっちり再構築したら、たとえこのゲームで1点程度のビハインドを負ったとしても、日本サッカーのポテンシャルならば、Awayでも3−0くらいの勝ちを獲得できるはずだ、と思ったのだ。

 ロスタイム、沈滞ムードのスタジアムに突然の歓喜が訪れた。もちろん僕も喜んだ。飛び上がった。何しろゴールしたのだから、素直に喜んだ。でも、その喜びはほんの数秒で周囲の人たちのように、ゲームセットまでは継続しなかった。僕はすぐ冷静になり、そしてそれまでのもやもやした気持ちにまた戻ってしまった。

 スタジアムの出口に向う時、1人の好青年が涙を流しながら「いやぁー、みなさん!本当に良かったですね。」と感激していた。僕はこの好青年の感涙をみて、さらに虚しくなった。


◆日本のサッカーとは?〜無策な戦術に関して〜

 ジーコは「個」を重視するという。たしかに「個」の力、判断は重要であり、不可欠だ。しかし「個」だけで勝てるほどサッカーは甘くない。さらに本当に優れた「個」ージダン、ネドベド、ロベカルのようなーを抱えているのならまだしも、日本の「個」は残念ながらそこまでのレベルにはない。
 一方、日本には先達が作った素晴らしいメソッドがある。また様々な研究、調査にも熱心で、他人の言うことに素直に耳を傾ける国民性がある。それがサッカーでいえば、トレセンであり、システマティックなコーチ資格制度であり、スポーツ医科学を始めとする多方面からのフィジカルに対する研究、実践である。それらのサッカーでの集約を一言で表せば「連携」なのである。

 日本は「個」の弱さを「連携」でカヴァーしてW杯ベスト16の栄光に輝いた。当然次のステップとして、「個」の強化を計るのは理解できる。しかし、「連携」あってこその「個」であることをジーコは忘れている。(というか、アタマの片隅にもない。)それは「たった15分の練習しかしていない」(ジーコのコトバ)海外組をこの本番で5人も先発させたことでも証明できる。

 100歩譲って、僕ら凡人には考えられない別の次元でジーコの構想があるとしよう。(とは言っても、フランス前も最後の最後まで加茂に対し、僕はその構想を期待したが)それがあったとしても、山田の起用は理解不能だ。彼の代表戦でのパフォーマンスで1試合でも満足したゲームがあったろうか。挙句の果てに昨晩は、自分までパニックになって右往左往、見苦しさの極めであった。もし、ジーコの眼力にかなう4バックの右サイドがいないなら、3バックにすればいいじゃないか。いずれにしても、日本代表は日本を「代表」するチームなのだから、パフォーマンスの停滞が数試合続けば、いくらお気に入り選手だとしても、起用すべきではない。そんなことは、ブラジルで揉まれてきたジーコなら少なくとも僕よりはわかるはずだが、わかっていない。

 ここで終われば、言ってみれば今までもわかっていた(あきらめていた)ことなので、まだマシだったのだが、さらにショッキングな事実がマスコミから伝わってきた。「3人も39度の熱があった」選手が「スタメン」だったということだ。まずこの「本番」に3人もの体調不良選手をチームに抱えるとはどういうことなのか。このチームにフィジコは、ドクターは、栄養管理士はいないのか。いるならば、何故「本番」にそのような事態になってしまったのか。既に3人の体調不良選手を抱えることだけで、このチームはプロではない。

 さらに「スタメン」だ。中澤や三浦淳や久保や鈴木は当日39度の熱を出している選手よりも格下なのか。スタメンとそれだけの差があるならば、何故そんな差のある選手を代表入りさせたのか。森岡や田中誠や服部や戸田や広山や市川や伊東じゃダメなのか。その前に加地でもいいじゃないか。いや、話しが逸れた。サブの選手にスタメンとそんなに差があるわけがない。なのに、使わない(熱を出した選手を使う)のはジーコが何も考えていないことに他ならない。仮に万が一考えた末の選手選考ならば、それはジーコの自業自得だ。今まで何回言っても、スタメンに固執し有効なテストを実施しなかったツケなのだ。


◆まとめ〜負けたほうがよかった2〜

 以上述べてきたように僕は昨晩のゲームは「たまたま」勝てたにすぎないと思っている。その勝利を単純に良い結果として捉えたとしたら。そして今のチームを継続したとしたら、次のオマーン戦も、そして行けたとして最終予選も苦戦は必至だ。なぜならば、繰り返すがこのチームは「チーム」になっていないからだ。だったら、「チーム」をつくるために今の「偽チーム」を解体しなくてはならない。解体するには理由と動機がいる。つまり昨晩のゲームが敗戦であったら、それらのものを全て一掃して、新たな強固な「チーム」作りの発端になったのではないかと考える。

 僕は日本代表と一緒に歓喜を味わい、一緒にドイツへ行きたい。日本代表が「チーム」となって苦難を跳ね返すところが見たい。しかし今の日本代表は・・・。ジーコが監督に就任して以来、僕は日本代表が「チーム」として機能しているゲームをほとんど見たことがない。その中で最も好印象を持っているゲームは、02年11月のアルゼンチン戦(0−2の敗戦)だ。そしてこのゲームは皮肉にもジーコが指揮をとっていないゲームだった。

 勝ったことはまちがいなくよかった。勝点3は本当に貴重である。だが、ドイツ行きのチケットを手にするには、この勝利を結果で判断し、感情で同調してはダメだ。次のシンガポール戦に戦う「チーム」として出場するために、日本は今こそジーコと決別すべきだ。

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