カントクの寝言  road to germany 第5章「突破」 (2004.10.14)
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■1点の重さ、1点差の格差

 1985年10月26日、国立競技場は日本代表が初のワールドカップ出場に「王手」をかける期待に満ちていた。メキシコ五輪銅メダル獲得後、漆喰の闇に沈んでいた日本代表が森孝慈監督の元、加藤久主将を中心として木村和、水沼、宮内等のタレントを擁し、遂に韓国との決戦を迎えたのである。

 しかし結果は1−2、さらにソウルでのaway戦も0−1で敗れ、ワールドカップ出場という夢は砕け散った。この10月26日のゲームは、木村和司の”伝説のフリーキック”として、加藤久のポストに当たったヘディングシュートとともに、その後もよくVTRが流されている。

 その画像、そして第2戦も含めたわずか1点差というスコアを見る限り、ゲームは拮抗していた、すなわち当時の日本代表は「わずかの差」でワールドカップ本戦出場を逃した、と見られている。が、現実は違った。この時点での韓国と日本の格差は絶望的なほど大きかった。この日のゲームを生で見た人なら、そして少しでもサッカーを見る目がある人なら、わかったはずだ。ボールポジッションからフィニッシュまで韓国が圧倒的に支配していて、日本のチャンスはわずかなカウンターとセットプレーだけだったことを。

 ではそれだけ”圧倒的”に支配されていたのに、何故2試合とも最小得点差だったのか?そこには韓国のタイトルマッチに対する意識、すなわち最初のawayでまず勝つことを主眼にリードしたらリスクチャレンジより安全を優先することという、いわばゲームプランニングに秀でていたからに他ならない。つまり、あらゆることを総合的に見て、あの時の”決戦”で日本が韓国に勝てる可能性は悲しいがゼロに近かったのである。

 時は経ち、2004年10月13日オマーン・マスカット、ここで繰り広げられたドイツワールドカップへの「決戦」で、僕は日本代表にあの時の韓国を投影していた。オマーンが日本に勝てる可能性は”ゼロ”に近いと思ったのである。

 確かに前半の前半はオマーンペースであったが、引分けでもよい日本はその攻撃を水際で「落ち着いて」食い止める。サッカーは手を使わない不確実なスポーツであるゆえ、もちろんそれなりの偶発的ピンチもあったが、ともかく選手は落ち着いていた。そしてゲームが落ち着いた後、特に鈴木のゴール後は、ほとんどピンチらしいピンチもなかったと感じる。(尤も、1点リード後の手を使える川口のペナエリア飛び越しイラン戦以来の”積極的守備の失敗”には肝を冷やしたが・・・)

 こうして日本代表は”余裕”で「決戦」に勝利したのである。


■ジーコとともに

 第4戦(インド戦)時に記載したとおり、ジーコの評価はこの一戦でと言ったが、日本代表は当然最終予選も彼をヘッドとして戦うべきであろう。理由は結果を出したから、に尽きる。ここで氏を解任する理由は当然一切ない。ここでは、今まで僕自身が否定派だったことを少し反省しながら、ジーコの戦略(というより価値観)を想像してみたい。

 まず本来代表とは寄せ集め集団であり、選出選手の経験及びスキルアップは当然のこととして多くはチームとして機能させることを主目的として、親善マッチを実施する。そしてそれなりに熟成したチームを発動するのがワールドカップ予選等の真剣勝負、というのが今までの僕らの普通の考え方だ。よって、親善マッチではアルゼンチンに大敗しても新選出の選手の可能性を見出すようなことを思うのと逆に相手がシンガポールであれ真剣勝負では結果とともにチームとしての質を評価する傾向にある。

 しかしこの手法は短期集中のフランス予選(2次リーグが3月と6月に2カ国で集中開催、最終予選のH&Aも9月〜11月のわずか2ヶ月)ならば可能であるが、今回のようなダラダラと月に1回程度の頻度で真剣勝負があるレギュレーションにはそぐわないのではないか。つまり予選自体をある意味チーム機能のための練習とせざるを得ないのではないか。

 これを逆に考えると、2006年ドイツで完成する積み木をジーコは就任と同時にひとつひとつ組立て、あるいは壊し、また別のパーツを組立て、という作業を繰り返しているのではないか。要するに、今は完成途中なのではないか。

 この作業はどの監督でもやっている、という反論があるやもしれないが、他監督は予選、アジアカップ等々でひとつのピークを持ってくるのに対し、ジーコはあくまで2006年までのロングスパンで考えているのではなかろうか。もしそうだとしたら、それは2006年までクビにならないという確約が大きな支えになっているような気がする。

 さらにチームというものの考え方。我々は概ねチームとは「明確な指揮(監督)下で意思統一した集団」がよいチームと考えるが、ジーコの考えるチームとは「強烈な個が各々の特徴を活かしながら意思統一した集団」なのではなかろうか。言い換えれば、ピッチ外からの指示がなければ動けない、もしくは考えることのできない集団では、ワンランクアップできないと思っているのではないか。

 うまく表現できていない部分も多々あろうが、すなわち僕らは今まで日本人の価値観で評価していたわけだが、彼の価値観はもっと違うところにあるとすると、僕らは自らの価値観で評価する意味を失う。さらにジーコと僕らが同じIQだという仮定上に立てば、サッカーというキーワードにおいてどの日本人よりも優れたキャリアを持つジーコの価値観は、ことフットボールの世界では間違いなく僕らより上位となるわけだ。

 というわけで、もうこうなったらアレックスがどーの、加地がどーの、なんてグタグタ言わないでジーコと共生(心中ではない、断じて)していこう、ってこと!

続編はこちらまで。

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