FRANCE World Cup 98 part6
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6月27日 ジュネーブ〜パリ〜成田

 最後の日である。朝早くジュネーブからパリへ、パリトランジットでW杯専用機で成田へ、とのはずがとんでもない事にANAの成田行が飛ばない。結局7時間パリで足止めをくらい、やっと成田へ向かった。何やかんやで出るのはため息だけだった。

最後の朝 いまだ昨日のショックが抜けず

同日 帰路飛行機の中で

 思えば日本人は「勝つ」ということをあまりにも難しく考えてはいないだろうか。「勝つ」ための最も早道で、かつ最も可能性の高い手段は自分の戦略を自信をもって徹底的に磨くことではないだろうか。相手の弱点をつくのも良しだが、原理原則は自分の戦略を貫くことであり、その一部の戦術として弱点をつく、があると思う。我が代表はこの戦略、戦術を整理できないまま、本大会に臨んでしまった気がしてならない。

 具体的に書く。我が代表の戦術は4バックが基本であり、攻守のバランスの良さが最大のメリットであった。
しかし本大会では相手の攻撃を恐れ、5バック(3バックではない)システムとした。このためフォローが極端に薄くなり3試合で1点しかとれないという不甲斐なさであった。
 もちろん、4バックだったらもっと失点が多かったのでは、という意見もあろう。だが、事実としてそんなにアルゼンチンやクロアチアの攻撃が代表の4バックでとめられないほど鋭かったろうか。結果は否である。実力はともかく、代表とのゲームにおいての彼らのパフォーマンスはW杯予選、国立での韓国とさほどレベル差があったとは思えない。

 言い方を変えれば、上記2国に勝てる千載一遇の機会を5バックという戦術で、点をとるよりとられないという戦術で失ってしまったのである。我が代表はビックネームの見えない敵に恐れを抱き最初から腰が引けていたのである。何も本当の実力を発揮した両国にまっこうからぶつかれ、と言っているのではない。
 当然ベスト4や優勝を狙うチームは最初から本調子でないことは1度W杯をみたものなら全員知っていること。そのまだ全開でない時期に両国にチャレンジできたチャンスに、何故自らの最高のパフォーマンスをみせようとしないか、最初から全開の両国をイメージし腰を引くか。

 全く別の観点からこの現象を捉えてみる。
この両国に代表は負けてもともとなのである、勝つ可能性はもとから数%にも満たないのである。その国に勝つにはどうするか、先制攻撃しかありえない、パールハーバーである。先に点をとって相手を混乱させるのである。 つまり4バックでスタートし、点をとったら5バックで徹底的に守るというポジティブ発想である。

 が、日本の指揮官はここでも誤った。まず守りの意識から入ったのである。結果として相手の攻撃が思ったほど鋭くなく1点とられただけで終わったが、今迄守って勝った歴史が1度でも日本サッカーにあっただろうか。唯一の例外に五輪のブラジル戦があげられるが、守って泣いた試合は星の数ほどある。
 ソウル五輪予選の中国戦、ドーハのイラク戦、香港ダイナスティの決勝、ウィンブレーのイングランド戦、そしてあの韓国戦。逆に崖ふちの代表は最近強くなった。チャムシルの韓国戦、ジョホールバル等。日本の国民性はともかく今の代表は攻めにパフォーマンスを発揮できるチームなのである。予選の最後の最後まで積極的な姿勢で成功した日本の指揮官が何故晴れの舞台で自分で行ったことのない、「守り」という消極策にでたのか。

 その誤りが最も顕著にでたのが、ジャマイカ戦であった。ジャマイカは身体能力が高いと言われたが、ただそれだけのチームであった。中南米3位のチームである。カウンターはサウジの方が鋭い。体力は韓国の方が強いそんなチームにも代表は腰が引けていた、W杯本大会というブランドに負けていた。さらにこのゲームは中西が出場停止となっていた。そして代役の小村は最近不調であった。なのに、また5バックだった。

 この現象の全てが、冒頭の「勝つ」ということをあまりにも難解な方程式にしてしまった日本の指揮官の大きな戦略ミスであることは疑う余地もないのである。日本代表が4バックで普段通りに戦っていれば、(サッカーに絶対はないが)おそらくジャマイカには勝ち、うまくすればクロアチアには引分けていた。結果論と言いたくないが、もしそうだったら日本は2002年に向け大きな自信と経験をもてたことだろう。そのせっかくのチャンスをJリーグの、いや全てのチームの監督経験を持たない指揮官の自信のない、誤った采配で無にしてしまった、この代償は筆舌に尽くせないほど大きい。

 それでは何故そんな指揮官に晴れの舞台の監督をまかせたのか、一体監督の上司である協会は何を思ってW杯に臨んだのか。疑問は多数ある。腐ったミカン事件の時、何故加茂続投か、アルマトイの時何故ジーコでないのか、日本人に監督をやらせることにどんな意味やプライドがあるのか。全く理解に苦しむ。彼らは本当に日本サッカーの代表の自負があるのか、口であると言いながら、何故何回もFIFAの理事選に落選するのか、しかも会長が自ら一度も出馬せずに。

 結局我々がどんなに日本サッカーを日本代表をそしてJリーグを愛しても、こんな馬鹿者がサッカー界の頂点に居座っている限り永遠に世界に届かないのか。
そう思うと自分の無力さに悔しくて、情けなくて、涙がでてくる。

7月13日 未明 日本にて

 フランスが優勝した。ジタンが、ドウザイーが輝いていた。が、何か呆気ない優勝だった。
思えばあの後が本当のW杯だったと思う。
今迄の大会もトーナメントが始まるとワクワクドキドキしてTVにかじりついていた。

 しかし我が代表のいないさみしさを身にしみて感じたのは今回が始めて。これを、持てる者(参加できた者)の嬉しさと表現していいのか、それともやっぱり悔しさなのか、ともかく、期間の長短は別にして濃密だった僕のW杯は終わった。青いユニフォームの、決定力のないFWの、背の低いGKの、開催国の優勝で。

おわりに

 ジョホールバルで岡野のVゴールが決まった瞬間、僕はラインズマンを見た。きっとオフサイドだ、こんなにうまくいくはずがない、至極の時がこんなにあっけなく訪れるはずがない、と思った。そこまでひねくれなければいけないほど、W杯は日本にとって、僕にとって、イバラの道だった。

 小学校への行きがけ、「渡辺、同点ゴール!」というラジオのアナウンスを耳にした。メキシコ五輪のブラジル戦だった。へえ、ブラジルといい勝負ができるんだ、と単純に思った。おそらくこれが、サッカーと僕との出会いであったと思う。

 そして何となく街のサッカー少年団で球を蹴り始めた僕は、70年W杯メキシコ大会に遭遇する。ペレ、トスタン、ジャイルジィーニョ、リベラ、マッツオーラ、そしてベッケンバウアー、めくるめくスターの競演に僕はとりこになった。もちろん当時は今のようにライブで観たわけでなく、まずはサッカーマガジン、イレブンという専門誌で味わい、その後記録映画そしてあのダイアモンドサッカーであった。ブラジルvsイングランドの1次リーグ、ペレの驚異的ヘディングを指先1本でセーブしたGバンクスのセーブは、今でも忘れられない場面だ。

 全てをライブで瞬間に観られる現代と異なり1年以上の月日をかけて(しかも前半と後半の間が1週間ある!)じっくり味わったW杯だけに、そして始めてのW杯だっただけに、今でも最も心に残っている。

 さて、メキシコ大会が終わると日本代表に興味を持ち始めた。あのアステカの、FAカップで観たウィンブレーの、緑の絨毯に是非我が代表が登場して欲しい。この想いが日本代表とのつきあい始めだった。

 が、僕の想いとはウラハラに我が代表は下降線を描いていく。期待していたはずのミュンヘン五輪予選はNHKのラジオで結果を知った。当時はラジオまで録音だったようで、初戦のマレーシア戦、番組の冒頭に鈴木文弥アナが「日本は負けました」と言った言葉が今でも脳裏に焼き付いている。

 もちろん楽しかったこともあった。サントスのペレ(NYコスモスではナイ!)、コベントリー戦、初の日韓戦の釜本のゴールをライブで観られた感激もあった。しかし繰り返すが、輝きもまさに一瞬で、日本代表はどんどん漆喰の暗闇に落ちていった。JFLも閑古鳥が鳴き、代表もネルソン吉村に代表されたエレガントなプレーは、ドイツ式という誤った解釈のもと藤島に代表される体力勝負のつまらないサッカーに変わっていった。

 W杯ははるか彼方の目標とも言えないものになった。それどころか、五輪出場さえ遠く空しいものとなった。間には、木村和司の「伝説のフリーキック」と言われた88年メキシコ大会予選、ホームで引分ければ出場決定という絶対有利の条件で戦ったソウル五輪予選もあった。それぞれライブで観た、応援はした、が、僕の心にはどうせ駄目だろうと言う負け犬根性がしみついていた。実際、結果以前にゲームの支配力で双方とも完全に相手が優っていた。あと一歩、とマスコミは言ったが僕には全然そんな気がしなかった。W杯も五輪もズッーと闇もまんまであった。

 そんな気持ちが変化してきたのは、Jリーグの結成決定、それに前後したカズの登場だった。リネカーのいるスパースを圧倒的な攻撃でKOしたキリン杯の優勝、そしてオフトという初の外国人監督を採用し、ダイナスティ、アジアカップを制したチームには充分世界を感じさせるものがあった。が、またしても満を持したドーハで悲劇を味わう。まるでドラマのような悲劇を味わう。

 しかし着実に変化してきたものがあった。それは、暖かく洗練されたサポーターである。
ドーハではまだ一握りの変わった集団でしかなかった彼らは、アトランタ五輪の予選、本選を経て、一気に爆発した。そう、フランスW杯最終予選初選のウズベキスタン戦である。その日の国立はまさに欧州のホームのスタジアムだった。つい8年前、西が丘で数千人の客の中でW杯予選を戦った国とは思えない光景であった。

 本当に日本サッカーは変わった。ただのスポーツから文化へ移行し始めたと確信した。これだけの後押しがあれば、サポートがあれば、今回こそは、と思った。が、衆知の通りそのリーグ戦は一喜一憂、何度も天国と地獄の間をさまよった。そしてたどりついたジョホールバルであった。

 大袈裟ではない、30年待ったのだ。何回も何回もくやし涙を流して待ったのだ。だから岡野のゴールが決まり、その瞬間フランス行きが決定してしまった事が僕には信じられなかった。夢のようだった。

 そんな想いを持って僕はフランスへ行った
そして30年を清算した。スカッとした。と同時に世界のサッカーの素晴らしさ、そして日本との果てしない格差を生で実感した。
 が、もう負け犬じゃない、格差は格差として認めて、でもポジティブにその差が埋められるよう日本代表をサポートしていきたい。これからも、ずっーと。

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