97年ジョホールバル W杯フランス大会最終予選 日本代表VSイラン イランが最後の力を振り絞ってカウンターにでた。センタリングがあがり、DFの間からアリ・ダエイの左足が一歩でた。絶好のタイミングでボールがダエイの足に合わされる、 あの出来事はそれから多分1分後。歴史はつくられた。 多分黄色いフラッグがあがり、ぬか喜びに終わるんだ、だから今飛び上がっちゃいけないんだ、何故かそう思っていた。何年も、何回も苦渋を感じていた日本代表に対する僕の気持ちが、体験が、オフサイドを予感させた。「こんな簡単にW杯に行ってはいけないのだ。」、決して容易でなかったフランスへの道程であったが、その瞬間何故か僕は、そう思ったのだ。 岡野がベンチに走っていく、皆なが抱き合って至福の歓喜を表現している。本当に勝った、本当にW杯に行ける、腹の底から重たい何十年も待ち焦がれた喜びがにじみでてきた。 その日、僕は中学の修学旅行最終日だった。午後6時過ぎ新幹線は東京駅に着き、僕は迎えにきてもらっていた母に荷物を投げかけ、走って地下鉄に飛び乗った。もちろん目指すは外苑前、そして国立である。 ペレが生で観られる、これは僕だけでなく日本中にインパクトを与えた。今まで何回か国際ゲームは観てきたが、このゲームほどチケット入手が困難だったのは、それまで経験がなかった。 国立には、ゲーム開始直前に滑り込んだ。そして圧倒された、今まで経験したことのなかった、国立の雰囲気に。席が満員なのである。 サントスの右ウイングに山口が翻弄される、釜本は前線で孤立し何もできない。そう、ペレだけじゃなかった、サントスはブラジルの一流チームなんだ、という当り前のことを実感していた。これがサッカーなんだ、なんて素晴らしいんだ、いつしか、日本代表を応援することもなく、黙って座って口もきかず、僕は見入っていた。そして、何故か涙がでていた。 87年国立競技場 ソウル五輪予選 ロス五輪予選の惨敗以降、僕は日本のサッカーに興味を失っていた。たしかに85年はW杯出場のあと一歩とせまり、木村和司の「伝説のFK」もあった。が、韓国の壁は大きかった。実際、国立でのメキシコW杯予選VS韓国戦を観戦したとき、僕は両国間のとてつもない差を実感した。ゲームは1−2であったが、実力差はそんなものではなかった。 そして、盛り上がりに欠ける中いつのまにかソウル五輪予選が始まった。僕はこの大会出場に、日本代表に対する最後の望みをかけていた。その理由として、なによりも韓国が予選出場しないこと、よって中国さえ倒せば望みはかなうわけである。 代表は順調に勝ち進み、遂に中国との決戦を迎えた。そして最大の朗報が北京より入る。1−0!アウェイで原のヘディング1発で中国を倒したのだ。つまり、ホームで引き分ければ五輪出場決定である。しかもこの時の代表は、加藤久、宮内、西村を軸に守備が強いチームであり、かつ守備力を強化の中心としたコンセプトで戦っていた。その中で引分けでいいのである。本当に夢の五輪出場が今まさに獲得できる、そんな期待があった。 当日、東京は雨だった。僕はロイヤルボックスのすぐ左隣で期待に胸を膨らませていた。今から90分後始まる夢のビクトリーランを思って。 運命のゲームが開始された。早々代表の動きがおかしい。1点のアドバンテージをもちながら、硬く見えるのは我が代表の方である。じっくり守ってカウンターを狙えば良いのに、何故かあせってボールを前に送ろうとして中国DFの網に引っかかる。逆に中国はロングボールをどんどん入れてくる。 夢ははかなく消えてしまった。こんなチャンスは2度とない、はずだった。守備偏重、心の弱さ、H&Aの経験不足、いろいろなことが言われた。が、全ては空しかった。最大の砦、韓国というチームがいなかったのに、ものにできなかった、僕はそれだけを思っていた。また、日本代表は漆喰の闇へ消え去った。奥寺というプロ選手、武田、堀池という有望な若手を抱えながら、韓国というハードルを除去された大会でも、代表はアジアの壁すら超えられなかった。 この夢が実現しそうになる、そんな感触を持つのは、ラモスの帰化、そしてカズが帰ってくる数年後まで待たなくてはならなかった。 |
世界編 HOME |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||