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余はいかにして最弱のCBとなりしか
〜あるいは「加茂が叫べば那須はお天気」

寄稿:てんぷく久野

1997年9月28日、国立競技場。W杯フランス大会アジア地区最終予選、日本vs韓国。

山口の綺麗なループ・シュートで先制した日本は、後半に入って韓国の左サイドを止めるべく、ベンチが準備を始めている。しかし、マンマークで抑えるはずの高は、日本が交代を告げる直前に金と代わってしまった。だが、日本の代表監督は用意した選手交代を変更しようとはしない。慌てたコーチはベンチを振り向き、確認する。

「加茂さん、これでいいんですか?」
「ええんや、岡ちゃん!」

それから8年後、2005年7月24日、晴天の那須高原グラウンドでクリアミスをさらわれゴールを許したセンターバックの俺がいるのは、加茂監督のその一言がきっかけだった・・・。


日韓戦終了後、俺と数人の連れはいつものように四谷三丁目あたりまでたらたらと流れ、居酒屋に入って打ち上げを始めた。敗戦の後、当然のように盛り上がりには欠ける飲み会だったが、その時点ではまだ、その先のフランスW杯予選における代表の苦戦の道のりまでは予測するべくもなく、まだ余裕があったのも確かだった。

ふと気が付くと隣の席に、これまたどう見ても国立から流れてきたとおぼしき二人組の男性が、プログラムを前に、今日の代表の闘いぶりについて議論を戦わせていた。
すると、こちらの連れが、
「それ今日のプログラムですか? ちょっと見せてもらえないでしょうか」
と声をかけ、それをきっかけに一緒に飲むことになった。

むろん初対面だったが、W杯を肴に話は盛り上がり、別れ際には再会を約して、連絡先を交換した。その後、W杯予選が煮詰まるに連れて、彼らとのメールのやりとりは頻繁になり、11月には決戦の地、ジョホールバルまで追いかけた彼らは、俺たちが送った応援メールをプリントアウトし、紙吹雪にしてスタジアムに撒いてくれた・・・。

* 当時と比べると、今の代表に対する関心の薄さは我ながら驚くほどなのだが、 浦和レッズなどというクラブ・チームをサポートし始めた者としては、当然といえば当然の帰結かもしれない。しかし、97年の秋は、本当に代表の成績で一喜一憂していたものだ。

ジョホールバルから彼らが帰国し、久々の再会は祝勝会となった。土産話を聞きながら、前回以上にその場は盛り上がり、そのうちに誰からともなく声が上がった。

「せっかくだから、フットサル・チーム作ろうよ!」

もちろんスフィアリーグなんてものは影も形もない当時のことだが、フットサル人口は着実に増えつつあった時期。93年に旧浦和市に引っ越して以来、生まれたばかりのJリーグに興味を持つようになってから、サッカーを見ることについては少しずつキャリアを積みつつあった俺だが、自分でボールを蹴ることについては、小学校以来、まったくといっていいほどなかった。

* 俺が小学校のころは野球人気のほうが圧倒的で、 サッカー部の顧問教諭が「野球部で補欠のやつ、サッカー部なら試合に出られるぞ」とクラスをまわって勧誘していたほど。

しかし、このタイミングはバッチリだった。
会社に近い神宮外苑のフットサル・コートが営業していて環境も悪くない、サッカーで繋がった気心知れた仲間も揃った。これはやるしかない!

その瞬間、俺の蹴球人生は本格的なスタートを切った。だから、97年の日韓戦、すでに交代した韓国のウィンガーをマークすべくDFの秋田を投入し、見事にチームのバランスを崩して逆転負けを喫するという、加茂監督の迷采配さえなければ、その日、彼らと出会うこともなく、フットサルを始めることもなかった。俺は加茂さんに足を向けて寝られないし、TVの解説が加茂さんでも消音スイッチを押すことはできない。

W杯がきっかけとなったフットサル・チームは、友人や会社の同僚を巻き込んでスタートし、ユニフォームを作り、神宮の大会へも参加するなど、なかなか活発に活動を続けたが、最初に居酒屋で出会ってチームの中心でもあったKさんが転勤となったのを潮時に、徐々にフェイドアウトしてしまった。まあこれもよくある話。

* ちなみにチームの正式名は「ハイネス・ユナイテッド」という立派なものだったが、 「かませ犬」という実力相応の通称の方がどちらかというと使われていた。

しかし、フランスW杯から4年後、今度は日本と韓国の共同開催である。
とあるきっかけから浦和に住んでいた俺は、連れ合いの友人が住んでいるから、ということもあって、2000年5月に東川口へ転居していた。W杯に向けて建設が進んでいたさいたまスタジアムまではチャリンコで行ける距離。連れ合いはそのころからW杯に向けたボランティア活動を始めており、浦和を中心にした人脈からグループを作り、どんどん忙しくなっていった。

* 連れ合い、とは伝法のことで、今でも俺は新潟へ行くとアライアンスの人達に「伝法さん」と呼ばれる。
 “伝法”とは連れ合いの旧姓であって、俺が戸籍上伝法姓であったことはないのだが、 新潟での知名度は連れ合いの方が圧倒的に高いことを表している。

2002年を目前にして、ボランティア・グループはJSA(NPO法人日本サポーター協会)とコラボレートするようになり、「さいたまサッカー・サポーターズ」(SSS)という名称になった。
SSSは折鶴を集める企画や、W杯会場周辺でフェイス・ペインティングのイベントをやるなど、W杯の開催前から開催中にかけてさまざまな活動を行ない、活動しながらもどんどんいろんな人が集まってきた。浦和在住でJSAの理事でもあった稲垣君は、JSAとSSSの両方で多忙を極めていた。

SSSはそもそも、W杯のためのボランティア・グループなので、W杯終了とともに活動終了という前提であった。
しかし、これだけいろんな人が集まってきたのに、そのままばらばらになってしまうのも残念だ。ということで、稲垣君が呼びかけた。

「フットサル、やりませんか?」

4年前と同じ、なのである。

SSSのフットサルは南与野のジョモニスタをベースに、隔週のペースで開催し、もう3年以上、続いている。JSAの“蹴Ciao!”とも交流して横浜まで遠征に行ったり。逆にさいたまへ来てもらったとき、JSAのドン、Tommy氏に、

「今度はフルコートもやりましょうよ!」

と誘われたのが、2003年の暮れに初めて合宿に参加するきっかけとなった。
初めて経験するフルコートのピッチは、5号球をまともに蹴ったこともない俺にはあまりにも広かったが、寒いとはいえ好天の下の天然芝には、フットサル場の人工芝と比較にもならない気持ち良さが確かにあった。

以来、年2回の合宿に誘っていただき、そのほかにもフルコートでサッカーを楽しむ機会は着実に増えてきた。4回目となる2005年夏合宿では、自分なりにアタマを使ってプレーしようとは試みたのだが、なにしろ体力も基礎も何もないので、同じチームになったメンバーには勝ち点を減らして迷惑をかけてしまった。
次回は“more better”。

しかし、まったく、数年前の自分では考えられないようなことになっているのだ。
だいたいF十歳も過ぎてから、こんなに長い時間をロッカールームで過ごすことになるとは。
すべては加茂監督の叫びから始まった・・・

「ええんや、岡ちゃん!」

(おしまい)

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