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 カントクの寝言  road to germany 蒼への思いpart1 (2004.3.4)
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◆前書き


それはいつも悲しみで終わっていた。メキシコ銅メダル以降、我が代表がアジアの壁を突破することを何度期待をしただろう。しかしその願いの多くは、例えば86年W杯予選のような決勝戦的ゲーム以前に簡単に挫折していた。その挫折はいつのまにか日常になり、僕は日本代表に勝利を期待しなくなる。ペレ、クライフ、マラドーナ等の夢のような優雅な世界のサッカーと比較し、あまりにも泥臭く、かつか弱くみえる”白”のユニフォームには悲哀さえ感じていた。

 期待をしていない、という表現は正しくないかもしれない。どうせ良い結果は出ないのだから期待するだけ空しくなるというあきらめ、という表現が適切なのかもしれない。しかし、心の奥底には「いつかはきっと」という妄想のような悲願が常にあった。そしてその妄想を実現するため、僕は自分自身にひとつの決まりごとを作った。
「日本代表がワールドカップに出場するまでは海外にサッカー観戦には行かない」
そして、僕は一生ワールドカップを観戦できないんだなぁ、と決まりごとを作った自分自身を嘲笑したが、その意地だけは必ず貫こうとも思っていた。

 「海外観戦ができるかも知れない」と代表に初めて期待したのはオフトが就任してダイナスティで韓国を破り優勝した時だった。そしてアジアカップの優勝は、その期待感をより大きくした。ひょっとしたらアメリカへ行けるかも、ワールドカップを生観戦できるかも知れない・・・、この頃から僕の”蒼”への思いは一層強くなった。あきらめ感が少しずつ薄れ、期待感が僕の心を支配し始めた。ワールドカップ観戦が現実味をおびてきたと感じたのである。

 98年フランス、そこは僕のサッカー人生の大きなエポックメーキングであった。フランス後、多くのサッカー仲間と出会い、また様々なサッカーに関わる活動も実施し、僕のサッカーワールドはフランス以前と比較すると数100倍の大きさに、またサッカーの楽しさも同様に広がったと思う。その後の気持ちは当HPでも紹介させていただいているが、ではフランス前の僕は一体どういう気持ちでサッカーに関わっていたのだろうか?自分自身のためにここでもう一度振り返っておきたい。

◆94年W杯USA大会1次予選


○93年4月8日 1vs0 タイ(神戸ユニバ)

 ダイナスティ、アジアカップと優勝した我が代表のワールドカップ予選は、93年4月神戸ユニバでのタイ戦でスタートとなった。当時タイはあなどれなくはあるが勝てない相手ではないという評価であり、ホームでのしかも初戦であるがゆえどうしても勝利が欲しかった。立ち上がり日本はかなり固かったが、福田、カズのコンビで遂に1点を奪い勝利。いつも期待した大会の出足でつまずくことの多かった代表がきっちり勝ち点を奪ったことに僕は頼もしさを感じたものだった。

photo by footballをご一緒に

○93年4月18日 2vs0 UAE(国立)

 この当時チケット前売りがTELであったかの記憶は定かではないが、僕は売出日の朝、日本橋の赤木屋に並んで購入した。とはいえ、たしか午前10時からの発売を9時過ぎに並び、かつ僕の前には10人程度しかいなかったはず。今と比較すればチケット購入は簡単だったようである。
 ゲームはオフト曰く「ナイフでの切り合い」。ともかくUAEのカウンターが怖く、柱谷のヘッドがゴールした時には飛び跳ねた。ただ家に帰ってTVをみると、UAEのカウンターはさほど鋭くはなく、日本の完勝だったと思った。

photo by footballをご一緒に

○93年4月28日 1vs0 タイ(バンコク)

 日本ラウンドを全勝で通過した日本は勝ち点でも得失点差でも大きくリードしており、マスコミ内では1次予選通過に対し楽観論もあった。しかし万が一この日のゲームで引き分け以下になり勝ち点を落とすと最終戦のUAE戦がかなり厳しいゲームになってしまう。よって、僕はこのゲームの勝利を心から祈った。もし勝てれば、よほどのことがない限り1次予選突破は確実だからだ。
 ゲームは井原とピアポンが両者退場という熱い戦いとなるが、堀池の一発で日本が勝利する。これで1次予選突破はほぼ確実となり、本大会において一番うれしい勝利だった。

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